あさえ がんばる

高校中退フリーターでしたが、現在はライター兼・会社員になりました

ブログが書けなくなった理由を考えた

あさえです。

 

約2週間ぶりのブログです。

 

 

 

昨晩書いていたブログがありました。

もう2000字くらい書いていて、あと1000文字くらい書いて推敲したら投稿できそうでした。

 

でも下書きにも保存しないでノートパソコンを放置した結果、その書きかけの記事は吹っ飛びました。

 

 

2000文字くらい、すぐ書けるはずでした。

 

8月に入ってから目標も書いてません。

これまで毎月(多分)書けていたのにここにきてこんなことになっています。

 

ブログネタはむしろ腐るほどあります。

本をたくさん読んでいます。

7月の連休は愛知に行って観光をしたり花火を見たりました。

新千歳空港でミクさんをちょっとだけ見たりしました。

東京にも行きました。

扁桃腺炎になりました。

ゴジラも見に行きました。

ポケモンGOもやってます。

 

 

なんでこんなに書けないんだろう。

 

ってちょっと考えました。嘘。たくさん考えました。

書けない状況がつらくて、書き出せば書けると思っているのに書き出せない。

実際書き出したら何かしらは書きあがるけれど、なんだか、納得できない。

もやっとしたものが残る。消化不良。

 

普段からそんなにたいそうなブログを書いているわけじゃあないけれど、それなりにポリシーというか主義があるわけで。

 

私にとってのネットは弱さを見せられる場所です。

 

つらいとかくるしいとか、もういやだとか。

 

そういうことを私は普段現実世界でどこでも誰でも見せられません。

強がりだし、ごく身近な人にも見せたくない。むしろ身近な人に知られたくない。

自分のコンディションは常に最良であると錯覚していてほしい。

 

弱音を吐くと、弱音を吐いていない時、つらくない時に過大な何かを期待されそうで怖いのです。

今はつらいんだね、仕方ないんだねって思ってもらっても、

じゃあ今は元気なら大丈夫だね

とかそんな風に思われるのがこわい。

 

本当は私はいつだってつらいし、いつだってしんどい。

 

それがちょっと薄れるとか忘れるくらい楽しいことがないわけじゃあないけれど、そんなことは長くは続かない。

むしろ忘れていた分、辛さが増したりする。

違う、同じ分のつらさでも落差で余計につらく感じる。

 

私はもうそういう風にできているんじゃないかって思うくらい、私にとって世界はつらくできている。

 

どうしたってこれは仕方がないから、私は私のつらさと向き合いながらどうやって折り合いをつけていくのか

どうやって薄れさせようか

どうやって忘れようかっていうことを考えている。

 

 

それでも弱音を吐きたいときがある。

現実だとたぶん普段より元気に見せたいとき。

 

私は元気で、私は大丈夫だよって言いたいとき。

 

大丈夫じゃないからこそ、大丈夫だよって言いたい。

だけど本当は大丈夫じゃないから、でもそれを自分の中でとどめておけないから誰にでもなく宛もなく吐き出したい。

 

そういう場所がツイッターで、ブログで、ネットだった。

 

 

 

そう、そうだったんだ。

 

 

そうだったのに、私が、自分で、自分の意思でここをリアルに近づけた。

 

リアルとネットが混じる。それはいいことも悪いことも招いて、私は結構たぶんキャパオーバーだ。

それでも逃げ場は必要で、だからその場で流れてくれる、「つぶやき」として流れてくれるTwitterはいまだに私の逃げ場として機能してくれている。

 

以前よりもハードルは上がったけれどどうしようもない時には、Twitterがある。

私にはまだ、Twitterがある。

 

 

でもブログはどうだろうか。

 

Twitterに流せるようなつらいと、Twitterでは流せない

ブログでまとめて文章化したいつらいはちょっとだけ違う。

 

この 文章化したいつらいはなかなか人に見せられない。

 

私はこのブログを知人に知られたら割と失踪するレベルなんだ。

そうなんだ。

それなのにリアルに近づけすぎてしまった。

 

 

ここだから書ける

 

はずだったことが

 

ここでも書けない

 

になって

 

ここだから書けない

 

になった。

 

どうしよう、私が望んだはずの事だ。楽しい事もたくさんある。

結果得られたことも大きい。

後悔はあまりしていない。

 

 

でも、それでも、

これはいったいどうしたらいいんだ。

 

 

私はここに書きたいことが、ここでしか書けないことがたくさんあったんだ。

 

 

それを見られても平気な人は知らない人じゃなきゃいけなかったんだ。

 

それなのに、「知らない人」は「知っている人」になった。

「仲がいい人」にもなった。

 

 

そう人に向けて書く文章と、ここに書いて捨てていたような文章は違うものだ。

 

 

好きに書けばいいとみんな言う。

 

それほど他人は気にしていないものだよ

というのもよく聞く話だ。私はそれを今までの人生で何度も自分に言い聞かせてきた。

むしろ必要以上に。

 

そうでなければ生きてこられなかった。

 

他人の目を正しく認識しても多分私はつぶれてしまう。

思っているより見られていなかった、ではだめなんだ。

私は私の自覚以上に見られている状況でなければいけない。

そのレベルで「自分は世間からあまり気にされていないのだ」

と認識していないとつぶれてしまう。

 

 

それほどまだ自分を強く保っていられない。

 

 

私のことなんて放っておいてくれ

そんなによく見なくてもいいよ

私はあなたにとって都合よくあろう

都合がいい私を必要としてくれ

あなたにとって都合のいい存在でいるから

 

だからどうでもよくて都合がいいものとして

必要ではないけれど

いても邪魔にはならないような

 

そんな風に扱ってほしい。全人類に対してそう思っているのに。

 

 

そうじゃない人が増えた。

たくさんいる。

ありがたいことだ。うれしい。

 

そう、確かにうれしいんだ。

 

だけれどごめんなさい、私はそんなにできた人間じゃあないんだ。

 

きっと多数の人が認識しているより私はダメな人間だ。

社会に適合できないし、中途半端に適合するふりをしたがるからたちが悪い。

できないことをできないといえない。

頑張れるかもしれないって気持ちになる

実際に頑張れることなんてそれほど多くもないのに。

たくさんのことを頑張れるほど自分に何かができると思っているのかばかやろうといいたくなる。

 

できると思っていた自分に反吐が出る。

 

 

夜だからだろうか。

なんだか久々に自分の中にもぐって書いている気がする。

 

 

そう、私はこうやって自分と向き合って自分のダメなところを吐き出して、それでね、ネット上だけの、気易くて軽くて、甘くて優しい言葉をもらって

そうして現実世界でまた明日から頑張ろうって

 

そういうことなのに

 

 

どうしよう

 

 

頑張るべき現実世界にいる人が

この泣き言を見ている。

 

泣き言を知ったうえで、現実世界で頑張る私を見るのは、強がる私をみるのはどんな気持ちだろうか。

滑稽でしょう。

そんな姿は見せられない

 

 

でも、だからって現実で弱くあれるかっていうとそれほど強くもないんだ

 

 

 

だから困ってブログが書けなかったんだ。

 

 

どうしよう

 

困っている。

 

読んでいる人を意識するのは悪いことじゃあないと思う。

 

文章なんて読む人を意識したほうがきっとよくなっていく。

 

そして読まれること自体はうれしいんだ。

 

アクセスが増えるとうれしい。

 

今は承認制にしてしばらく承認すらしていない状況だけれどコメントがつくのもうれしい。

 

 

この間は本当に、本当に泣きそうなくらいのコメントがついて

ああ、ブログ書いていてよかったなって思った。

久しぶりに思った。

そう、私はあなたのような人に向けてブログを書いていたの。

そうしてコメントを残さないような、一度読んでこのブログの存在すら忘れるような人でもあれを読んで何かを思ってくれていたら、誰かの人生に影響を与えられていたら私はとてもうれしいんだ。

 

 

 

 

だけれどその人をたとえば現実世界で認識してしまうだとか

 

その人から私が認識されてしまうだとか

 

そういう事はちょっと困るんだよ。

 

 

私は私だけれど、あなたが思っているのとはちょっと違うかもしれない。

 

 

どうしよう。

 

 

 

この間東京に行ったとき

「思っていたのと全然違う」

という言葉をたくさんもらった。

きっとポジティブな意味だったと思うんだ。きっとね。

 

ああ、想像と違ってごめんなさい、

期待されていた私はどういうものだっただろうか

 

なんて思ってしまう。

 

めんどうくさいでしょう。

 

 

何を言っても私はきっとこういう風に色々考えて一人で沈んで一人で復活するんです。それなのに一人で沈んでいる時をこうして吐き出して吐き出したことで自分と向き合うけれどその過程を見てしまったらね、すごく面倒に思うでしょう。

関わりたくなくなるでしょう。

なにも、言いたくなくなるでしょう。

 

 

 

そう思われたくないんだ。

だから現実世界の人には見られたくないんだ。

そう思うなら私は一人で孤独にブログを書いていなくちゃいけなかったけれど、でも1年ブログを続けられたのは間違いなく、交流があったからなんだ。

 

 

 

でもこれをこうやって書いて公開できたなら、

ある程度違うのかなって思ったりもする。

 

 

 

私は私だけれど、考えていることはひとつじゃあないんだ。

思考回路はいろいろあって、実はポジティブなこともネガティブなことも結構いろんなことを同時に考えている。

その中でどれが採用されてどれが残るかっていうとネガティブなことが多いかもしれないけれど現実に反映させているのはポジティブなことが多いんだ、実は。

 

 

だからどうか。

 

これからもブログが書けますように。

 

私はなんだかんだ言ってブログが好きなんだ。

 

 

 

 

ねえ、大好きなんだよ

ごめんね

 

 

 

 

おわり。