あさえです。
レールの外にいる人間として、ちょっとだけ書きます。
転がり落ちたと気づくまで
高校を中退しました。そこから私はレールから外れた生き方をしています。
高認をとって大学に行ってなんとかレールの上に戻ろうともしましたがかないませんでした。
努力不足、実力不足です。
環境が違えば違ったかもしれませんが、与えられたカードでしか勝負ができないのは仕方がないことです。
さて、私は今でこそ
あの時はああするしかなかった。
私は限界だった。
いきるための選択だった。
私はレールから転がり落ちたのだ
と思っていますが、しばらくはそのことを自覚できずにいました。
あんなレール、自分から降りてやったのであって、決して転がり落ちたわけではない。
自分で降りたレールの上に未練を感じるなんてとんでもない。
この道は正しいはずだ。レールの外にこそ私の生きる道はあるんだ。
そう信じて疑いませんでした。そうしていないと精神を保っていられなかったのかもしれません。
しかしこの思考が数年私の行動を縛ります。
時間がたてばたつだけ歪んでいびつになっていって、自分じゃもうどうしようもできないほど肥大化していくそれはじわじわと確実に私を苦しめていました。
自分はあの時レールから転がり落ちたんだ、と気が付いたときは救われました。
突然呼吸がしやすくなって、ようやく今まで呼吸がしにくかったのだと気が付きました。
気が付いてから認めて咀嚼するまでにも時間がかかりました。
かつて優秀だった頃の、努力して認められていた頃の自分が邪魔をするのです。
転がり落ちたことを認めてしまえば楽になるのに、そんなことは許さないという自分も確かにいたし、今だって心の奥底にはまだいるのです。
私はまだ縛られているのかもしれない。
それだけ転がり落ちることは大変なことでした。
自分でレールから外れる人
自分の意志でレールから外れる人たちがいます。レールの上でも生きていけるのに、あえてレールから外れてくる人たち。
こっちのほうが生きやすいと思ったのか、こっちで何かしたいことがあったのか。
動機はそれぞれですが、私のようにもう他にどうしようもなくって、どうしようもない状態で転がり落ちたのではなくて、余裕をもって、ゆとりをもってレールから外れてきた人たち。
レールから外れるのだからそれは相応に傷を負ったり、痛い目を見たりするかもしれません。
でもそれは転がり落ちるのとは比べ物にならない。
彼らはそれをある程度予測しているし、それに対しての対処もできる状況なことがほとんどだから。
なんの準備もなく無様に転がり落ちた私とは違う。
そこの違いを認識できないでいると辛い目にあいます。
自分も彼らと同じように自ら選んでこのレールの外に来たのだと。
そう思うと辛いです。
レールの外なはずなのに、見えている景色は全然違う。
そう、全然違うのです。
だってスタート地点も準備もなにもかも違いすぎるから。
そもそものスペックの違いを抜きにしたって、状況の違いは大きいのです。
レールの外に出るなら準備はしたほうがいい。
絶対にそのほうがいいんです。
そうしたら楽しい事もできるかもしれない、レールの上にいるより自由に生きられるかもしれない。
でもそのためにはそれなりの準備が必要なんです。
たまに準備をしなくてもその場でなんとかできる人もいます。
それはそれで限られたごく一部の人です。
それはそういう適性のある人なのです。
誰にでもできることじゃあない。
レールの上が息苦しいですか。
優秀でいられない自分がつらいですか。
レールの外でなら優秀でいられると思いますか。
優劣の問題から逃げられると思いますか。
レールの外はあなたが思っているよりきっとずっと辛い場所です。
そこで楽しそうにしている人しか見えないのはあなたがそういう環境にいるからでしょうね。
苦しんでいる人のほうがずっと多いですよ。埋もれて見えないだけで。
どうか、どうか、転げ落ちそうな自分を自覚して。
転げ落ちることを自分で降りることと誤認しないで。
そして、転がり落ちてしまうくらいなら、準備がままならないまま自分で降りることもありだとは思います。
転がり落ちるよりはましだから。
でもそれはそういう自覚をもっていないと辛いです。
しがみつけそうならしがみついてみてほしい。
転がり落ちたレールの外からは以上です。
おわり。